三好三人衆

みよしさんにんしゅう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  戦国時代末期の武将。いずれも三好長慶の一族で、長慶の父元長の従兄弟である三好長逸〔ながゆき〕・三好政康〔まさやす〕および石成〔いわなり〕友通の三人をいう。長逸は初め長縁〔ながより〕、官途は日向守、政康は下野守、入道して釣竿斎宗渭〔ちょうかんさいそうい〕、友通は主税助と称した。政康を政長の子政生(政勝)と同人とするのは誤り。長慶が1564年(永禄7)病死すると、養嗣子義継(十河一存〔そごうかずまさ〕の子)を傀儡〔かいらい〕として専権をふるい、松永久秀と謀って翌1565年5月、将軍義輝を京都武衛陣〔ぶえいじん〕に包囲して殺した。しかし程なく松永久秀は、幼主義継を擁して三人衆から離反し、畿内は戦乱状態に陥った。1567年(永禄10)10月東大寺大仏殿が炎上したのは両者の争いによる。三人衆側は篠原長房の援助で態勢を立て直し、足利義栄を将軍に立たせたが、1568年9月信長の怒涛の進撃の前に三人衆は阿波に追いやられ、その政権は壊滅した。1569年正月、信長が岐阜に帰国したすきに挙兵して将軍義昭のいる京都本国寺〔ほんこくじ〕を攻めたが撃退され、1573年(天正元)友通が淀城に敗死して勢力は衰滅した。

執筆者: 今谷明

参考文献

  • 今谷明『戦国三好一族』 1985 新人物往来社
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