又兵衛新田

またべえしんでん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  西新田地先に開発された新田。尼崎藩領1684年(貞享元)に6町9反5畝13歩、高41.726石で高入れされた。当初の開発者は不明で、天明年間(1781~1789)ころには中在家町泉屋利兵衛と大坂釣鐘町・嶋屋利右衛門が所有していた。1783年(天明3)には地内の5町4反7畝19歩、高23.224石が大浜新田として高入れされ、1804年(文化元)にはさらに0.478石が高入れされて5町5反5畝18歩、高23.702石となった。1824年(文政7)ころから又兵衞新田地先の新たな開発をめぐって西新田村民が城下へおしかける事態となったが和解し、1830年に6町1反28歩、高36.656石が酉新田として高入れされ、1844年(天保15)にはさらに0.754石が高入れされて6町2反3畝15歩、高37.410石となった。1838年(天保9)「巡見使通行御用の留」(『尼崎市史』第6巻)には115.879石、家数18軒、人数94人とある。各新田ともたびたび転売され所有者が変わった。氏神の八幡神社(近世には八幡宮)はもと又兵衛新田字樋先にあり、その後元浜町に移転した。

  1889年(明治22)以降は大庄村の大字、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字又兵衛となった。明治末期以降日本リーバ・ブラザーズ尼崎製鉄久保田鉄工所武庫川工場などが建設され、1934年9月の室戸台風により大浜新田が流出するなど壊滅的な被害を受けた後は復興計画により工業地帯化が一層進んだ。1937年には地先の埋立で扇町がつくられた。1949年の土地区画整理で大浜町となったほか一部が中浜町・丸島町となった。

執筆者: 地域研究史料館

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