多田院

ただのいん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  摂津国川辺郡多田(現川西市多田院)にあった寺院。多田神社の前身。970年(天禄元)、多田を開発した源満仲の発願により建立。法華三昧寺ともいい、はじめ天台宗系寺院。満仲は死後ここに葬られ、廟所も営まれた。鎌倉幕府の成立後、源頼朝は祖先の所領、また祖廟として尊崇し、周辺の武士を多田院御家人として安堵した。承久の乱後、多田荘の地頭職を得た北条泰時は、多田院御家人を再編成して、多田院警固を御家人の最重要任務とし、多田院条規も定めた。以後多田荘とともに得宗領として得宗が多田院の経営に深く関与し、文永正和(1264~1317)のころに大規模な修造も行なわれた。この間忍性が別当となり、多田院は天台宗から律宗西大寺末となった。室町幕府も、足利尊氏いらい深く尊崇し、寺領安堵など数々の助成を行ない、また将軍遺骨の分骨なども行なわれた。一方室町時代には、たびたび「多田院鳴動」がおこった。多田院御家人も塩川氏を筆頭に国人に成長し、多田院に加地子などの寄進を行なった。以上中世に関しては、517通もの中世文書を伝存する(重要文化財)。戦国末・近世初頭には荒廃したが、寛文年中(1661~1673)将軍家綱が「源家長生之守護神」として再興につとめ、500石の朱印地も寄進した。現在の本殿・拝殿・随神門(以上重要文化財)、六社宮・南大門(以上県指定文化財)等は寛文再興期のもの。寛文再興には神社色を濃くし、1696年(元禄9)満仲700回忌にさいし「多田権現」の勅号と正一位の神階を授けられた。明治維新のさい神仏分離により仏教色を一掃して満仲らを祭神とする多田神社となり、現在にいたる。

執筆者: 熱田公

参考文献

  • 川西市史『かわにし』第1巻 1974・2 1976
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