大同鋼板争議

だいどうこうはんそうぎ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  朝鮮戦争後、不況が深刻化する中、一方で進められた大手鉄鋼業界の再編・合理化の動きに対して大同鋼板で起こった争議。1952年(昭和27)5月~7月、翌1953年2月~6月、1955年7月の3次にわたって起こった。

第1次

  1952年5月17日会社側は業績不振を理由に、工員343人、職員40人の指名解雇および厚生福利費の削減を通告した。これに、組合(全金属兵庫支部大同鋼板分会、1,877人)はストライキを含む実力行使、5月27日には決起大会を開き対抗した。尼崎の全金属系各労組なども支援態勢をしいた。しかし、会社側の対応も強硬で、6月25日に開始が予定された連日時限ストに対して工場閉鎖で応じ、29日までこれを続行した。工場閉鎖解除後も、労組の抵抗の中工場の機能は回復せず、7月10日会社は指名解雇を撤回し、代わりに希望退職者292人の募集と一時金8,000円の支給を内容とする妥協案を掲示した。執行部は妥協案に軟化し承諾の意向を示したが、下部の組合員の反発を受け一時混乱も生じた。結局、労組が妥協案を受諾して、第1次争議は解決するに至った。なお、希望退職者は組合の予想を上回る315人に達した。

第2次

  会社が富士製鉄の系列下に入る度合が強まるにつれ、人員整理を基軸とする経営合理化案が再び前面に出された。1953年2月会社は、労組の賃上げ要求を拒否するだけでなく、組合の規制力を弱めるべく労働協約・就業規則の改訂を提案した。4月に入ると組合は鉄鋼労連の統一ストライキに先駆けてストを行なったが、会社は4月13日から18日までの工場閉鎖を声明し、再び労使間の対立が深まった。5月には製鋼・条鋼工場の閉鎖が決定され、組合員の不安を強めた。そして、6月10日会社側は従業員の約35%に及ぶ工員347人、職員137人、計484人に及ぶ指名解雇を通告した。これに対して、組合は無期限ストを決定したが、15日の全員投票で決定に必要な3分の2の得票を得ることができず不成立となった。組合は、16日から22日にかけて24時間ストライキを連日行なったが、組合員の士気は上がらず、かえって百数十人の退職者を出した。結局、組合が会社の指名解雇を認めることによって、争議は終結した。

第3次

  1955年6月、会社は新機械の設置および人員整理案を発表、これに対し組合は6月14日スト権を確立し、17日以降時限ストを繰り返した。7月5日会社側は団体交渉の席上、三たび解雇それも全員解雇と厳しい条件を掲示した。一方、鉄鋼労連薄板部会でも、大同問題を鉄鋼業界全体のものとして政治的に取り上げ、鳩山首相にその窮状を訴えた。組合は一応全員解雇絶対反対の態度を示したが、荷役工組合が全員退職し組合が解散するなど内部の動揺は激しかった。会社側は強硬姿勢を貫き、7月11日より工場封鎖を断行した。結局、7月27日会社側が全員解雇を希望退職に切り替えると、8月2日執行部は会社案の受諾を可決した。しかし全員投票の結果、妥結賛成361、反対370となり決定は覆された。この結果会社側は、退職金を上積みする意向を示し、同時に妥結しなければ不渡りが発生するかもしれないと告げた。それは尼鋼争議の経験から組合員の動揺を招き、4日に行なわれた全員投票は受諾559、反対127の大差で会社側との妥結を決定し、これにより従業員数を412人(部課長を除く)まで減員する協定書が結ばれた。

  こうして3次にわたる大同争議は終りを告げ、最盛期2,000人を抱えた大同鋼板は、その人員を約5分の1に減らして再スタートすることになった。

執筆者: 福永文夫

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