市立尼崎病院

しりつあまがさきびょういん
大阪帝国大学付属臨時医学専門部代用病院より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  町制実施以前の1882年(明治15)、コレラ流行に対応して大洲村に避病舎が設置されたのが、尼崎で最初の伝染病医療施設であったと考えられる。1890年には旧城郭内西三の丸(現北城内)に移転し尼崎避病院と改称、1907年には専任院長をおき、1916年(大正5)4月の市制施行と同時に市立尼崎伝染病院と改称した。一方小田村でもすでに大正年間に伝染病隔離病舎を字山ノ下(現常光寺1丁目)に設置しており、昭和期にはいると尼崎市・小田村とも伝染病施設の改築拡充が課題となった。このため1935年(昭和10)には大庄立花両村も加えた組合立伝染病院設置計画が検討されたが、1936年の尼崎市と小田村の解消合併ののち市単独で設置することとなった。1938年5月小田村伝染病舎の地に新たに市立尼崎病院(伝染病院)を建設開院、これにより北城内の伝染病院は閉鎖された。尼崎病院では立花村の伝染病患者の委託収容も行なった。1942年4月にはさらに増築して市立市民病院を併設し、内科・外科・産婦人科・小児科・皮膚泌尿器科・眼科・耳鼻咽喉科の診療を開始した。市は大阪帝国大学との間で同市民病院を大学付属臨時医学専門部代用病院として契約し、医療・薬剤・看護の人件費は大学が負担することとなった。1945年6月15日の空襲で施設が罹災し、市民病院は閉鎖された(7月31日廃止)。尼崎病院は伝染病院として戦後も継続し、1948年2月には病院内に市立小田診療所(内科・小児科)も開設されたが、1956年4月をもって診療所廃止、1962年3月末には尼崎病院も廃止された。

  このほか市立の伝染病院としては、合併にともない大庄村から引き継がれた大庄病院があった。西字本田(現大庄西町2丁目)にあり、1949年ころまで存続した。

執筆者: 地域研究史料館

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