天保4年加古川筋一揆

てんぽう4ねんかこがわすじいっき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  加古川流域は天領・三卿領・旗本領、姫路・小野・三草・古河・尼崎などの諸藩領に分かれ、複雑に入り組んでいた。1833年(天保4)は凶作の年で、米の買占めがあり、同年秋には古米1石が銀115~116匁に高騰した。この時期に起こったのが加古川筋一揆である。9月12日の暮れ六ツ時に加東郡稲荷野に集合した群衆はまず新町(現加東市・旧滝野町)を襲い、以後加古川筋の富農・富商を次つぎに打ちこわした。南下した一揆勢は加古郡・印南郡・美嚢郡に至り13日夜に解散した。北上した一揆勢は西脇から黒田庄に進み、尼崎藩領では津万井村(現西脇市黒田庄町)の酒造家徳三郎・栄六郎・大門村(現西脇市黒田庄町)の林兵衛宅を打ちこわした。さらに丹波久下谷へ越え、柏原藩兵に鎮められたのは15日であった。

  この間に襲われた村は78か村、家数161軒におよんだ。打ちこわしに遭った家は銀貸・問屋・酒造・干鰯屋などであった。尼崎藩では一揆鎮圧後に藩の役人を遣わしたが、処罰などについては史料を欠いている。この一揆は富農・富商と中農・小農との階級的矛盾が拡大深刻化した時期にあたり、数万人の農民が参加した。1749年(寛延2)・1871年(明治4)の姫路藩領一揆とともに播磨国の三大一揆の一つ。

執筆者: 脇坂俊夫

参考文献

  • 『西脇市史』 本篇 1983
  • 『兵庫県史』第5巻 1981
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