安保闘争

あんぽとうそう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  日米安全保障条約改定阻止をめざして、1959年(昭和34)3月28日に総評・社会党・共産党など134団体で安保改定阻止国民会議が発足した。7月25日には尼崎市民共闘会議も結成されて、議長川井幸太郎(社会党尼崎支部長)、副議長篠原健蔵(尼崎地方評議会議長)・原田慶助(尼崎全労副議長)、事務局長佐藤俊夫(社会党尼崎支部書記長)のもとに19団体6万人が結集した。1960年1月の民社党結成にともない、川井に代わって高岩進が2月7日に社会党支部長に選ばれるとともに、市民共闘会議議長にもなった。また、3月には共産党尼崎市委員会が市民共闘会議にオブザーバーとして加わった。5月10日には安保改定阻止尼崎商業者協議会が阪神商工共済会会員の上野理雄らによって結成され市民共闘会議に加盟した。尼崎商店連盟も6月7日に社会・民社両党代議士らの立会演説会を企画したが実現には至らなかった。頂点の6月4日と15日の2次にわたる統一行動に尼崎市では延2万3,000人が決起集会に加わり、一部の商店も閉店してこれに呼応した。同月23日の新安保条約発効後も、市民共闘会議は存続したが、7月18日の尼崎全労の離脱とともに有名無実化した。わずかに10月12日の社会党委員長浅沼稲次郎刺殺に抗議して、同月15日には反ファッショ民主主義擁護尼崎市民大会に3,000人が結集し、20日の市民葬にも1,000人が参列、市長の弔辞が助役によって代読された。

執筆者: 岩村登志夫