尼崎城濠

あまがさきじょうほり
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  尼崎城廃城ののち、残った濠は順次姿を消していった。1885年(明治18)の地形図によれば、すでにこの時点で松の丸と東三の丸の間および二の丸と西三の丸との間の濠は、南側の一部を除いて埋め立てられている。さらに明治期後半には、城内土地(株)の手で庄下川から大物川にいたる外濠が埋め立てられ、六島新田として開発された。一方残された内濠は、士族団が国から借用して1903年以降養魚場として利用した。1905年5月の町会では城跡を町立公園とし濠も保存する計画案が決定されたが、1907年以降は埋め立て推進の方向に転じ、1914年(大正3)には町から内務省に濠払い下げ願いが提出された。埋め立ての目的は、尼崎尋常小学校と尼崎町役場の敷地拡張であった。払い下げののち1917年に市が埋め立てに着手、数次にわたる工事ののち1926年には内濠の埋め立てが完了した。1971年3月には大物川埋め立てが終わり外濠の東側部分も消滅、残る西側(庄下川)と南側部分のみとなった。

執筆者: 地域研究史料館

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