残念さん

ざんねんさん
山本文之助鑑光より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1865年(元治2)から本格的にひろがった一種の流行神で、幕末期非業の死をとげた者への同情が反幕思想の色彩をおびて畿内の民衆をまきこんだものである。大和天誅組の変で憤死した吉村寅太郎の墓(吉野鷲家口〔わしかぐち〕)に1864年(元治元)2月から参詣がみられ、6月には群参が始まった。この年7月に禁門の変で京都から敗走してきた長州藩中間山本文之助が、尼崎北の口門で逮捕され、尼崎藩の取調べ中残念残念といって自殺したがその噂が伝わると、1865年(元治2)2月から民衆が尼崎の東墓杭瀬字松ヶ下)に群参し、領主の禁制にもかかわらず5月には大坂から絶えまなく参詣人がつづき、残念さんとよばれるようになった。この種の働きは、すでに1828年(文政11)の河内若江村(現東大阪市)の木村長門守墓所への参詣に先例をみるが、残念さん信仰は、幕末政治過程を見つめる民衆の動きを示すもので、禁門の変の中心人物真木和泉らの墓(京都府大山崎町)、破壊された大坂の長州藩屋敷の柳、兵庫湊川の楠木小祠などもその例である。1864年2月大坂東御堂門外で薩摩商人を梟首して自殺した2人の長州藩士についても、同御堂と千日の墓への群参があった。これについては長州藩尊攘派指導部による民心収攬策とみられるが、一般的には民衆の「長州びいき」の生んだ流行といえる。なお山本文之助鑑光〔かねみつ〕の墓は、長州と取引のあった油屋喜平(長尾家)の世話で東墓に建てられ、のち移転された尼崎市杭瀬南新町4丁目の明徳寺支坊墓地において毎年7月20日に法要が営まれている。

執筆者: 酒井一

参考文献

  • 小野寺逸也「“残念さん”考」『地域史研究』第2巻第1号 1972
  • 井上勝生「幕末における民衆支配思想の特質」『歴史学研究』No.502 1982 (同『幕末維新政治史の研究』 1994 塙書房所収)
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