山田屋大助の乱

やまだやだいすけのらん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1837年(天保8)7月に北摂の能勢・川辺郡で徳政大塩味方と称して蜂起した事件。主謀者は当時大坂斉藤町の住人、能勢郡山田村出身の山田屋大助で、大坂で薬種商や手習師匠を勤めていた。大塩平八郎の乱に触発されて、飢餓に苦しむ郷里でことを起こしたもので、玉造口組同心本橋定次郎や大坂での知人を誘って7月2日夜今西村の杵〔きね〕の宮に集った。付近の村々に回状で呼びかけ、33か村700人をこえる村人の動員を得て進んだが、酒・銭などを強要するうちに地元旗本能勢氏や諸藩・大坂町奉行所・代官勢によって5日には鎮圧された。杵の宮本陣から川辺郡村々にあてた文書には、一郡あるいは一国惣有米を国(摂津)の全人口に平均に割り当て、貸借関係も破棄するよう、「帝様」から諸領主へ命じるよう嘆願するとし、「関白殿下」に訴えていた。地元多田院御家人と禁裏との結びつきが考えられるが、京都への働きかけと一国平均の救済の思想は注目されよう。

執筆者: 酒井一

参考文献

  • 川合賢二「天保・能勢騒動の再検討」『歴史評論』No.351 1979 校倉書房
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