工代会議

こうだいかいぎ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  日本労働組合評議会が組織拡充策として大阪の印刷工場を対象に1925年(大正14)11月にはじめて開催、1927年(昭和2)春の金融恐慌勃発のもと、同年6月4日の全兵庫県工場代表者会議に続いて、8日夜、尼崎工代会議が市立図書館で3時間半にわたって開催された。30工場136人の出席者は、総同盟傘下から久保田鉄工所22人はじめ9工場35人、組合同盟からは乾鉄線14人を含む5工場50人、残りが未組織工場。市域の従業員15人以上の規模の30工場のうち、18工場から参加するが、12工場が従業員150人以下の中小企業であった。主唱者の関西合同労働組合は組合同盟傘下にありながらも、久保田鉄工所出身の国領巳三郎ら共産党員が指導し、藤岡文六ら組合同盟幹部の影響力排除につとめた。しかし、出席者の大半が有志代表であり、乾鉄線争議支援共闘の狙いは果せず、同争議惨敗とともに関西合同労組も組合同盟から逆に排除されて、少数の乾鉄線解雇者集団に転落をよぎなくされた。

執筆者: 岩村登志夫

参考文献

  • 岩村登志夫「乾鉄線争議と尼崎工代会議」『兵庫史学』第49号 1968
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