住友金属工業鋼管製造所

すみともきんぞくこうぎょうこうかんせいぞうしょ
扶桑金属工業より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1880年代から1890年代、大阪にいくつもの銅加工会社が設立されたが、住友別子銅山の元支配人だった広瀬坦によって1895年(明治28)、大阪市北区安治川上通に創設された日本製銅(株)もその一つであった。2年後の1897年、その日本製銅(株)を住友家が買収して銅・真鍮類を板や棒・線などに加工する事業に進出したのが住友伸銅場(同年4月1日創設、1913年-大正2-6月11日、住友伸銅所と改称)で、つづいて1909年7月20日には製管工場、1912年5月1日には鋼管工場を新設、日本ではじめて銅や真鍮の引き抜き管・継目無し鋼管の製造を行なった。この伸銅所が1919年9月9日、中大洲(新城屋新田、現東向島西之町)で操業していた岸本製鉄所を買収して開設し、鋼管素材の生産をはじめたのが尼崎工場の端緒であった。

  岸本製鉄所は、大阪の有力鉄鋼商、岸本吉右衛門一族の資本によって1901年(明治34)尼崎に創設されたもので、1911年には合資会社岸本製釘所(のち岸本商店尼崎製釘所)を設立し1912年(大正元)3月に尼崎製釘所開設、1916年には製鋼工場を増設して、伸銅所に譲渡されたころには25トン平炉3基と年産2.5万トンの圧延能力を備えていた。

  新発足した尼崎工場の製品は当初、鋼線、棒・型鋼、釘、鋲の鋼材と2万トン足らずの粗鋼であったが、折からの慢性不況下にもかかわらず、スティーフェル製管機が新設され鋼管素材生産も準備された。1928年(昭和3)9月、旧工場に隣接して大径鋼管用の水圧機・エールハルト式製管法を採用した新工場が完成すると、安治川の鋼管部門は尼崎に統合された。さらに満州事変勃発を契機とした軍需発注の増加、民需の増大に対しては、1932年から1935年にかけて設備の増強がはかられた。大径長尺管用(マンネスマン式)製管設備を採用した第3鋼管工場、特殊鋼生産のための電気炉などの新設備は、尼崎工場の生産能力を飛躍的に拡大すると同時に生産性も高めた。1932年2.5万トンだった粗鋼生産は1936年4.6万トンに、鋼管は1.9万トンが4.1万トンへ増加した。こうして尼崎工場は、1935年9月17日、住友金属工業(株)と呼称を変えるころには企業内の主力工場になるとともに、「鉄の街」尼崎を担う平炉メーカーの中軸としての位置を占めていたのであった。1937年の日中戦争を契機に、戦時統制が本格化し軍需優先の生産が強化されるが、軍用品の受注比率が高い住友金属では受注が増加、とりわけ1941年以降は激増した軍需生産が70~90%を占めた。1940年、陸海軍共同管理工場に指定され、重要工場として「近泉第六工場」と呼ばれた鋼管製造所でも、敗戦前年まで生産の低下は見られず、粗鋼生産のピークも1944年であった。1945年6月15日、空襲を受けるが被害は軽微だった。なお1941年4月11日には同じ住友金属工業のプロペラ製造所神崎支所が設置されている。

  終戦直後の1945年11月30日に扶桑金属工業と改称していた住友金属は、1949年7月1日、企業再建整備計画の認可による第2会社新扶桑金属工業(株)として出発、1952年5月28日に住友金属工業に商号復帰した。朝鮮戦争を契機に立ち直った日本の鉄鋼業は、1951年1955年の第1次、つづく1956年1960年の第2次「合理化計画」を通じて設備更新・近代化をすすめ、高度成長を達成してゆく。住友金属では、第一の時期には中堅高炉メーカーの小倉製鋼(株)を合併(1953年7月1日)して変則的な銑鋼一貫化を図り、平炉メーカーが直面していた銑鉄の安定確保を達成した。第二の時期には、新鋭の銑鋼一貫製鉄所を和歌山に建設・稼動させ、自ら高炉メーカーに転身することで対応した。これにともなって再編された工場間分業の影響は、戦前からの主力工場に集中的に表われた。とりわけ1957年から加速する和歌山製鉄所の整備進捗につれて、鋼管製造所は全社生産に占める相対的比重を急激に低下させていった。1950年、粗鋼生産に占めた43%の比重は1961年には5.8%に、圧延鋼材は生産量が2倍に増えたにもかかわらず60%から10%に、生産量が倍加した鋼管もまた78%だった比重が33%に低下した。鋼管製造所の分業分担は、特殊鋼の自給と少量多品種の管材生産、そして外径5インチ以下の中小径高級鋼管の生産がその役割であった。1960年には、工場開設以来の平炉操業が停止され、「鉄の街」を担ってきた「鉄をつくる」工場は、40年を経て鉄の加工工場へと姿を変えたのであった。

  1960年代前半、住友金属工業は和歌山製鉄所の設備増強をすすめるとともに、後半にはさらに茨城県鹿島に大規模製鉄所を建設、四大高炉メーカーの一角を占めるに至った。

執筆者: 名和靖恭

  2012年(平成24)10月1日、新日本製鐵と住友金属工業が合併して新日鐵住金(株)が発足し、尼崎の旧鋼管製造所は同社尼崎製造所となった。2019年4月1日、新日鐵住金は日本製鉄と改称した。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 『住友金属工業六十年小史』 1957
  • 名和靖恭「尼崎市域鉄鋼業の構造変化」『市研尼崎』第22号 1979 尼崎市政調査会
  • 南昭二「尼崎工業の分析-鉄鋼業の衰退を中心として」『阪神間産業構造の研究』 1987 法律文化社

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