摂津国欠郡

せっつのくにかけのこおり
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  室町時代、摂津国の神崎川以南の地域を指す呼称。律令制〔りつりょうせい〕では神崎川以南の摂津は西成・東生・住吉・百済の4郡よりなるが、百済郡は早くにすたれ、応仁の乱前ごろには住吉・東生郡を欠郡(闕郡とも)と呼ぶようになった。記録での初見は1460年(長禄4)で、興福寺門主の日記にみえる。ところが戦国時代になると西成郡(中島地域を含む)も欠郡の名で呼ばれるようになり、広く神崎川以南の3郡の総称として用いられた。文禄・慶長検地ごろまで欠郡の称が見えるが、近世初期には律令制の3郡(百済は住吉に合併)に戻っている。呼称の語源は、1383年(永徳3)摂津守護に復帰した細川頼元がこの3郡を分郡として畠山氏ら隣国守護に奪われた(欠郡)ためというのが有力である。

執筆者: 今谷明

参考文献

  • 今谷明『守護領国支配機構の研究』 1986 法政大学出版局

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