電産争議

でんさんそうぎ
日本電気産業労働組合協議会より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1950年(昭和25)春から夏にかけて、ドッジ・ラインの影響による不況の嵐の中、電産(日本電気産業労働組合協議会)が起こした争議。企業の人員整理を含む合理化の攻撃に対して、各産業で労働者による反対運動が起こっていたが、同年3月電産は賃上げを求めて停電ストを行なった。電産県支部の闘争は13日以降本格化していくが、これに呼応して尼崎でも同18日、火力3分会(尼崎第一・第二発電所尼崎東発電所)が8時間ストを決め、兵庫・大阪の6火力も同調した。尼崎全労協総同盟尼崎地方協議会がこれを支持、尼崎3火力は東発電所を主力に3月中に5波に及ぶ電源ストを実施し、全労協傘下の金属各部会も18日同調ストを行なった。この争議は3月末に一旦妥結したが、経営側がスト中の賃金をカットしたことに対して、労働者が反発し4月に再燃した。同24日尼崎3火力は第2発電所で合同大会を開いて電源ストを決定し、28日まで実施した。その後も電源・業務ストが繰り返されたが、6月に入ると電産内でも民同派が台頭し対立を深めた。7月12日には電産中央常任執行委員会から、共産主義者の排除を盛り込んだいわゆる「零号指令」が出され、さらにレッド・パージが行なわれて、尼崎電産では民同派が多数を占め全労協を脱退した。

執筆者: 福永文夫

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