東亜セメント

とうあセメント
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1907年(明治40)1月25日、帰化中国人呉錦堂一族の出資50万円によって尼崎町初島に創設され、工場は2万坪の敷地に日量約300トンの能力を持つ焼成窯を備えていた。1920年(大正9)には150万円に増資されるが、折からの戦後恐慌のなか小規模工場の維持発展は困難で、1935年(昭和10)にいたって株式の大部分を浅野セメント(株)に譲渡、公式の合併(1942年)まで社名は存続したが、実質的には浅野セメント尼崎工場となった。1937年には月産1万1,000トンの回転窯の増設によって生産能力も拡大したが、太平洋戦争中の1943年からは石炭の配給停止によりセメント生産を中止。商工省の指令にもとづき、東亜コバルト(株)に工場設備を賃貸してコバルト精練を始めたが、実績もあがらぬまま終戦を迎えた。このころ工場敷地は地下水汲み上げによる地盤沈下が激しく、台風や高潮による浸水被害も重なっていたため1949年9月工場は閉鎖、主要設備は数年がかりで西多摩・佐伯などの他工場に移設された。

執筆者: 名和靖恭

参考文献

  • 『日本セメント七十年史』 1955
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