東大寺・鴨社相論

とうだいじ かもしゃそうろん
東大寺・鴨社争論より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  平安末期以降、長洲浜の領有をめぐって東大寺鴨社のあいだで争われた相論。現在の尼崎市の東南部、神崎川の川口に位置した長洲浜は、もと東大寺領猪名荘に属する浜地で、東大寺は住人から在家地子を徴収していた。ところが、1084年(応徳元)、魚介類を貢進させることを目的として、この地に長洲御厨を設定した鴨社は、近隣から網人(漁民)や浪人を積極的に招き寄せて鴨社供祭人・神人などに編成したので、在家数が激増した。鴨社の支配は、本来、住人の身柄に限定されていたが、やがて四至牓示を打って住人から在家地子を徴収するなど、土地にたいする領域的な支配の形成をめざすようになった。このため、1092年(寛治6)、東大寺が長洲浜の領有権を主張して朝廷に訴え相論が勃発した。朝廷は、1106年(嘉承元)、長洲浜の土地は東大寺領、在家は鴨社の支配とすべしとする裁定をくだした。しかし、この相論の本質は、供祭人・神人などの在家(人間)支配を媒介にしながら土地にたいする領域支配を強化しようとする鴨社と、土地領有権を根拠に激増する在家を把握して荘園支配の拡充をはかろうとする東大寺との、荘園制支配の形成をめぐる二つのコースの争いである点にあったから、こうした朝廷の裁決だけでは、相論は容易に終息せず、以後、鎌倉末ごろまで断続的に展開されるのである。

執筆者: 田中文英

参考文献

  • 竹内理三『律令制と貴族政権』第2部 1958 御茶の水書房

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