江口

えぐち
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  都市としての尼崎は、8世紀末以来、都と瀬戸内海を直結する航路としての神崎川河尻が中継港湾都市として発展することによって形成された。長岡京に遷都した桓武政権は、785年(延暦4)、淀川下流北岸の一津屋(現摂津市)・江口(現大阪市東淀川区)から三国川(現安威川)南岸の別府(現摂津市)の間(現在の大阪市と摂津市の境界線)を開削する大土木事業を行なって現在の神崎川をつくり出し、瀬戸内地域から運上物を、河尻を積替え基地として水路で山崎津まで輸送できるようにした(続日本紀、延暦4年正月14日条/『尼崎市史』第4巻)。この航路は物資輸送だけでなく、王朝貴族が都と西国を上下する際の航路としても利用されたため、平安時代には、淀川と神崎川の分岐点にあたっていた江口に下流の神崎と同様多くの遊女たちが集住して王朝貴族を接待した(遊女記/『尼崎市史』第4巻)。しかし、江口は川泊であるとともに陸上交通路上の宿でもあった。武士が騎馬で、庶民が徒歩で都と難波との間を往還した道は、難波-長柄渡(橋)-江口-柱本(今津)-芥川と淀川筋をたどったと推定され、江口はその中継点としての宿でもあった(選集抄9-8)。

執筆者: 河音能平

参考文献

  • 『新修大阪市史』第2巻 1988
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