今日は何の日(5月1日)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
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- 左弁官は東大寺の奏請により同寺領猪名荘の四至立券に官使を派遣することにした。同年8月摂津国司は猪名荘の検注を官使とともに行なうよう留守所に命令した。(1162年)
- 長洲御厨内の開発田をめぐる東大寺と鴨社の争論について、開発人を地主とし地子は東大寺に雑事は鴨社に納めるよう官符が下された。(1218年)
- 西日本一帯に大地震がおこり、尼崎城の天守が傾き多門櫓・石垣などが破損した。東武庫村が全焼した。(1662年)
- 阪神電鉄で、車掌・運転士らが労働時間短縮など待遇改善の陳情を会社に拒否され、同盟罷業を行なった(阪神電鉄争議)。尼崎での史上初の労働争議と考えられている。(1906年)
- 西大洲(新城屋新田、現西向島町)所在の大阪鉄工所鋳鉄管工場が独立し、関西鉄工が設立された。(1916年)
- メーデー大阪大会に尼崎の労働諸団体が初めて参加した。(1922年)
- 森永製菓塚口工場がビスケット製造を開始した。(1923年)
- メーデーの大阪大会に参加する総同盟尼崎連合会所属の組合員約500人が旧城内から阪神大物停留場までデモを行なった。(1924年)
- 総同盟尼崎連合会が貴布禰神社で尼崎初のメーデー大会を開き、参加者500人は8時間労働制実施その他を決議して阪神庄下停留場までデモを行なった。(1925年)
- 乾鉄線でメーデー参加者全員解雇との会社発表に対して、組合側はストライキをして大阪メーデーに参加した(乾鉄線争議)。(1927年)
- 合同紡神崎工場争議の情勢から尼崎のメーデー大会は許可されず、総同盟尼崎連合会傘下組合600余人は西宮の大会に参加した。(1929年)
- 昭和恐慌のもと、北城内の阪神電鉄本社前広場で催されたメーデー集会に約千人の労働者が集まり、解雇や賃金値下げ反対を訴えながら出屋敷・築地を経て杭瀬までデモ行進した。(1931年)
- メーデーに総同盟尼崎連合会・全労阪神連合会・全評阪神地方協議会の400余人が参加し、職工採用親方制廃止などをスローガンに貴布禰神社で大会を開いた(戦前最後のメーデー)。(1935年)
- 戦後初のメーデーが市民運動場で開かれ、約1万人が参加した。(1946年)
- 城内小学校の教室を仮使用していた市立図書館が、南城内の旧市庁舎2階に移転した。(1951年)
- 市立公民館が南城内の私立尼崎訓盲院跡から昭和通2丁目に新築された市立図書館施設内に移転した。(1959年)
- 市立尼崎第二養護学校が金楽寺小学校内に仮校舎を置く形で設立された。(1965年)
- 『尼崎市議会史(資料篇)』が刊行された。これに続けて翌1971年3月にかけて「施政方針演説集」「記述篇」が刊行された。(1970年)
- 統一メーデーが7年ぶりに復活し、参加者は5万人を数えた。(1973年)
- 兵庫県阪神環境事業公社が発足した。(1975年)