百間樋井組

ひゃっけんびゆぐみ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  百間樋から井路を利用する井組。井親である旧大市荘5か村(上大市・下大市・段上・高木・門戸村)と下流の上瓦林・御代・下瓦林・今津・津門・中村・芝・広田村および西宮町・同浜の9か町村、計14か町村(現西宮市の大半を占める)で組織されていた。対岸の富松井と取樋口が向かい合っていたために、渇水期には分水をめぐって争った。永禄年間(1558~1570)後半年には大市荘が伏せた樋を、川東6か郷(富松井組)が掘り起こした。1570年(天正前半)には、大市荘が掘った用水溝を富松井組のものが埋めてしまった。1611年(慶長16)片桐且元・貞隆が遣わした検使衆の名判を記した分木を渡され、百間樋4分・富松井6分の分水協定が成立した(分木の定め)。ところが分木が大坂の陣で焼失した後、1647年(正保4)百間樋側が分木規定を無視して水を多く取ったとして争論になった。1649年(慶安2)大坂町奉行所の裁定により、慶長の4分6分の分水が再確認され、分水に使用する分合樋の寸法もそれぞれ示された。これにより、以後は江戸時代をつうじて両井組の間で分水争いは起こらなかった。

執筆者: 山下幸子

参考文献

  • 『西宮市史』第2巻 1960
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