神崎合戦

かんざきかっせん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  神崎は京都と瀬戸内海地域とを結ぶ要衝に位置していたため、南北朝期以降、しばしば合戦の舞台となった。足利尊氏と弟直義が対立し、直義が南朝方について観応の擾乱が起こると、1351年(正平6・観応2)正月、直義方の畠山国清の軍勢が神崎の合戦で摂津守護赤松範資の代官河江右衛門太郎入道円道を攻め落としたのをはじめ、翌年3月に楠木正儀らが大挙して赤松勢を攻め、11月には石塔頼房らの軍勢が神崎付近を焼き払うなどの合戦があいついだ。この神崎には橋がかかっていたが、「太平記」(巻38)によると、1362年(正平17・康安2)8月、楠木正儀・和田正武の軍勢の出撃を阻止するため、摂津守護代箕浦次郎左衛門俊定が焼き払ったという。応仁の乱が勃発すると、1470年(文明元)12月に、西軍の大内政弘方の仁保弘有が神崎城に拠って山名勢を破るなど、その後も戦国期にかけていくども合戦が行なわれた。

執筆者: 田中文英

参考文献

  • 高坂好『赤松円心・満祐』 1970 吉川弘文館
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