1820年代

1826年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 18世紀 - 19世紀 - 20世紀

  10年紀: 1790年代 1800年代 1810年代 - 1820年代 - 1830年代 1840年代 1850年代

  各年: 1820年 1821年 1822年 1823年 1824年 1825年 1826年 1827年 1828年 1829年


  1820年から1829年までの10年間を指す。

1820年代の年表

  • 1821年(文政4)
    • 1月 - 尼崎荒物屋仲間は、川凌御用として毎月1軒につき銀1匁ずつを藩に上納することになった。
    • 5月 - 有力農民らが出資して講銀を積み立て藩に融通する常盤講について、領民一統が難渋しており出資の継続がむずかしいことを大庄屋らが尼崎藩に申し立てた。
    • 12月 - 常磐講の継続がむずかしい旨の大庄屋らの申し出を受けて、尼崎藩は講の中絶を決定した。
    • このころ - 中浜新田地主の尼崎平野屋が、高・人別の支配を道意新田から分けたいと主張して道意新田と争論が続いた。
  • 1822年(文政5)
    • 1月13日 - 近衛家は、伊丹酒荷物の庄本村高瀬船積みを許可し、神崎問屋扱いを停止した。
    • 7月29日 - 幕府は西宮・灘地方から江戸への絞り油直積みを禁止し、かならず大坂の油問屋を介して出荷するよう申し渡した。
    • 9月 - 幕府直領潮江田中善法寺村は、年貢米の京都・江戸・大坂3か所分納を大坂御蔵1か所への上納に変更してほしいと願い出た。
    • この年、旧尼崎藩主松平忠告の俳句を『一桜井発句集』として前藩主松平忠宝が刊行した。
  • 1823年(文政6)
    • 5月 - 城下の材木屋5人の願いにより、尼崎藩は尼崎材木問屋株7株を免許した。
    • 6月13日 - 摂津・河内両国の1,102か村が、在々絞り油屋の油小売、種物の質入れ・干鰯屋渡しの許可を大坂町奉行所へ訴えた(国訴)。
    • 6月16日 - 日照りにさいして野間井組内で水論が起こり、井親村である野間(現伊丹市)・友行に対して武庫庄東富松西富松塚口の井子4か村から多人数が押しかける騒動になった。
    • 9月 - 高洲新地の地主たちは、日照りにより下作人の年貢用捨願いをうけて藩に年貢の用捨を願い出た。
    • この年の序をもつ文人名鑑『続浪速郷友録』に尼崎の横山仙二・木崎政五郎・高木専輔の名がみえる。
  • 1824年(文政7)
    • 4月13日 - 摂津・河内・和泉3か国の1,460か村は、種物値段の引立てと在々絞り油屋による油の小売許可を大坂町奉行所へ訴えた(国訴)。
    • 4月27日 - 摂津・河内・和泉3か国の1,460か村の種物値段の引立てと在々絞り油屋による油の小売許可の訴えに対して、大坂町奉行所は菜種・綿実の絞り油屋仲間・油仲買仲間に返答するよう命令した(国訴)。
    • 11月22日 - 城下の日傭たちは、本興寺の普請手伝いに大坂の人足が尼崎側より多く入り込み難渋していると藩に訴えた。
    • 12月 - 中浜新田道意新田とが仲裁人の調停で分村証文を取りかわし、幕府への負担以外は中浜新田地主が独自に行なうことになった。
  • 1825年(文政8)
    • 1月 - 又兵衛新田地先の開墾に支障を申し立てていた西新田村・浜新田村の小前百姓が残らず尼崎城下に出かけ、大騒動になった。
    • 5月27日 - 尼崎藩は、藩主が勤める将軍の日光代参費用調達にために御用銀を領内に賦課すると大庄屋5人に申し渡した。
    • 6月 - 西昆陽常松・段上(現西宮市)の3村は、西国街道の武庫川渡し場である髭の渡しで村が勤める公用渡し人足賃の負担が過重なため、公用の徒歩渡しを渡し船に改めたいと大坂町奉行所へ願い出た。
    • 7月29日 - 但馬豊岡町で産物会所・金銀売買商人など打ちこわし。
  • 1826年(文政9)
    • 2月5日 - シーボルトが、オランダ商館長の江戸参府に随行して陸路尼崎を通過した。
    • 2月 - 尼崎城下の生魚売買の出店・店方の仲間は、中屋の生魚沖買いが尼崎魚商売不振の原因であるとして、その禁止を魚問屋仲間に願った。
    • 5月9日 - シーボルトが、オランダ商館長の江戸参府に随行した復路において、陸路尼崎をふたたび通過した。
    • 8月 - 旗本青山氏領下坂部村および武庫郡中村の百姓は、前年の年貢米売払い値段に不正のあった前の地方代官植村滝右衛門になお不正があったとして、過去10年の勘定帳の下げ渡しを地方代官に願い出た。
    • 10月13日 - 椎堂村は、猪名川高瀬船株を貸していた庄本村問屋が約束の預け料を払わないので、その支払いと船株の返還を伏見船役所に願い出た。
    • 11月22日 - 島上・島下・豊島3郡米仲買は、伊丹酒屋送り米の神崎問屋扱いを近衛家が認めるよう、斡旋を尼崎藩に願い出た。
    • この年 - 神崎村の五郎兵衛・六右衛門は、尼崎城下の醤油屋仲間には株入りせずに醤油業を営みたいと藩に願い出た。
  • 1827年(文政10)
    • この年 - 尼崎の貝漕船持ち仲間は尼崎猪牙船の打瀬網漁の禁止を藩に願い出た。
  • 1828年(文政11)
    • 1月19日 - 神崎村は、伊丹酒荷物の神崎浜出し再開許可を藩に願い出た。
    • 9月3日 - 尼崎藩はむこう3か年にわたる大幅な家中上げ米を命じた。
    • 10月 - 幕府は、尼崎藩領の播州宍粟郡村々のうち21か村5,890石余を公収し、替え地として川辺・武庫・有馬3郡のうち13か村5,574石余を与えると申し渡した(尼崎藩の飛び地領)。
    • 12月5日 - 尼崎藩は替え地として与えられた村々の受取り手続きをすませ、続いて7日に公収された村々の引渡しを完了した。
  • 1829年(文政12)
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