七松の荒木郎党処刑

ななつまつのあらきろうとうしょけい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  荒木村重1578年(天正6)11月、故あって織田信長に謀反し有岡城に籠城。1579年9月村重は毛利の援軍を頼もうと尼崎城へ移って帰らなかった。主を失った有岡城は裏切者が出るなど、なす術もなく信長の軍門に下った。尼崎城・華熊城を差し出せば、妻子は助けようとの申し出も受けず、ついに12月13日村重の家来は尼崎七松において処刑された。まず上﨟たち122人が美しく着飾って張り付けにされ、槍で刺され、あるいは鉄砲で撃たれた。この他、女性388人、男性(若党)124人は4つの家に閉じ込められ、周りを草で囲まれ焼き殺された。

  なお村重の女房だしをはじめとする一族30余人は12月16日、車に2人ずつ乗せられ、京を引き回しの上、六条河原で斬首された。

執筆者: 瓦田昇

  村重一統が処刑された場所について、『立花志稿』は「岡村由緒記」を引いて処刑地を七松の東方、「はっつけ田」(磔(はりつけ)田)の異名を持つ東芦原であるとし、同地は三反田地内であるが七松の集落に近いので、処刑地が七松と伝えられたのであろうとしている。地名研究家の落合重信氏は、『立花志稿』の考察に加えてこの近辺の建設工事の際の人骨出土例などに鑑み、七松の東側から東芦原にかけての一帯がかつては広い墓地であり、それゆえ村重一統の処刑地として選ばれたものであろうと推察している。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 『荒木村重史料』(伊丹資料叢書4) 1978
  • 落合重信「地名からみた尼崎地域」『地域史研究』第1巻第3号 1972(のちに落合重信『地名研究のすすめ』国書刊行会1982に収録)
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