大物総道場

だいもつそうどうじょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  西教寺の別称。戦国時代、三反田から大物に移転した西教寺は三番定専坊末であった。西教寺は大物衆を束ねて大物警護のために当番制をしいたという。また西教寺隣接の常念寺は寺伝によると海老江(現大阪市福島区)から移ったといい、現存しない寺院を含め当時かなりの坊末寺院が大物にあったと推定できる。このように、西教寺は大物付近の一向宗寺院・草庵を統轄する役割を担ったので、大物総道場と称された。信長と本願寺との抗争は1580年(天正8)3月17日の覚書等で休止したが、この時大物衆は摂津一揆勢に参加して荒木村重亡命後の尼崎城(大物にあった旧城か)にたてこもり、石山本願寺の出城として固守していた。尼崎衆は講和不服の門徒とともに新門主教如を擁して立ち上がったが、6月には兵庫の華熊城とともに落城した。

執筆者: 田中勇

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