栖賢寺

せいげんじ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  かつて寺町にあり、1929年(昭和4)に京都府修学院(現京都市)に移転した臨済宗大徳寺派・大徳寺末の寺院。山号は朝崇山。『尼崎志』には康永年間(1342~1345)竺堂開基、のち兵火に衰退するが廣徳寺とともに笑嶺宗訴(1583年・天正11没)中興とある。また同書は、栖賢寺は本寺大徳寺と同じく赤松氏の建立になるものと推定している。中世には大物町にあったが、近世尼崎城築城にともない元和年間(1615~1624)に寺町に移転したと考えられる。「川角太閤記」には、1582年(天正10)の山崎合戦を前に羽柴秀吉が栖賢寺で髻〔もとどり〕を切ったとある。『絵本太閤記』などに秀吉が明智勢に追われて廣徳寺に逃げ込み、さらに隣の栖賢寺に逃れたとあるのはこれを潤色したものであろう。栖賢寺は近世には大物町に寺領を有していた。近代にはいって無住となり、1900年(明治33)創立の琴浦育児院に転用され、あるいは一般向けの貸間とされるなど移転前には衰退していた。

執筆者: 地域研究史料館

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