神崎遊君

かんざきのゆうくん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  中世の神崎の津にいた遊女。遊君は遊女と同じで、「あそびめ」「うかれめ」などともよばれた。平安中期以降、神崎川の河口に位置するこの地が、舟運の要衝として発展するにしたがい、遊女らが集まり、対岸の蟹島(加島、現大阪市)や上流の江口(現大阪市)と並ぶ遊女の里として栄えるにいたった。12世紀初頭ごろ、大江匡房は「遊女記」のなかで、神崎は「天下第一の楽地」であり、碇泊している船に遊女が小舟をこぎよせて夜伽をすすめる声は、風浪を圧するばかりであるといい、そのころの著名な遊女として、河菰姫・孤蘇・宮子・力命らの名前を挙げている。遊君のうちには、今様をはじめ歌舞・音曲などの芸にすぐれた者も多く、院や貴族の宴遊に参加したり、その妻妾になる者などもいた。今様狂いと評された後白河法皇は、今様を謡う技を神崎の「かね」をはじめとする遊女らからも習っており、また、後鳥羽上皇が水無瀬離宮で宴遊をおこなうさいには、江口・神崎の遊女をよび、今様などを謡わせて乱舞するのが常であったという。しかし、一方で、下層の遊女は悲惨な状態におかれていたようで、鎌倉初期、法然上人に身の罪業を懺悔して5人の遊女が入水したという伝説なども生み出され、江戸時代に建てられた遊女塚が神崎の地に現存している。

執筆者: 田中文英

参考文献

  • 瀧川政次郎『江口・神崎』 1988 至文堂
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