長洲荘
(長洲御厨より転送)
現在の尼崎市長洲地域に位置した荘園。はじめ長洲散所〔ながすのさんじょ〕・長洲御厨〔ながすのみくりや〕といわれた。この地は、神崎川の川口に形成された砂州地帯で、長洲浜とよばれ、元来、東大寺領猪名荘の海岸部をしめ、998年(長徳4)には250町におよんだ。長洲浜は、三方が海に面し、網人〔あみびと〕(漁夫)の集散に適していたので、次第に住人が増加し漁民集落の形成がすすんだ。そこで、東大寺は渚司・刀禰らを置いて住人から在家(屋敷)地子を徴収するようになり、港湾を管理する検非違使庁も、住人に庁役をかけはじめた。住人たちは、この検非違使庁役を免れるため、権門勢家の散所になって身分的特権と保護をもとめる方法をとり、まず小一条院敦明親王・式部卿宮敦貞親王父子の散所となり、ついで二条関白藤原教通の散所としてその身柄を寄せ、教通はこの散所を娘の小野皇太后宮藤原歓子に伝領した。散所というのは、住人が雑公事・臨時雑役などの国家的な課役や地子物などを免除されるかわりに、権門勢家に属して雑役などを奉仕する所領と住人のことで、このばあい、長洲の住人は、東大寺に在家地子を納めるとともに、散所民として権門貴族に雑役を勤仕するという関係が形成されたのである。ところが、1084年(応徳元)、鴨社(鴨御祖社)は、毎日の神饌に供する魚介類を入手する必要から、社領山城愛宕郡栗栖郷の田地と、この長洲散所とを相博し、ここに鴨社領長洲御厨が成立するにいたった。
御厨は、天皇家・摂関家などの貴族と伊勢神宮・上下賀茂社(賀茂社・鴨社)に供物・供祭物・食料として魚介類その他を貢進する所領のことで、それを負担する住人を供祭人・供御人・神人などとよんだ。当時、長洲の網人は38人、在家は20余宇であったが、彼らは御厨になるとともに、鴨社供祭人に編成されて魚介類を奉納することとなった。長洲御厨が成立し、検非違使庁役や国役などの課役免除の特権を獲得すると、鴨社は近隣の網人や浪人を積極的に招き寄せ、彼らを供祭人や神人に組織していった。そのため、はやくも、1118年(元永元)には、神人300人、間人〔もうと〕200人、浜在家数百宇に増加し、急激に漁村として発展している。御厨の住人は、供祭人・神人としての特権と鴨社の権威を利用しつつ、瀬戸内海を往来して漁業・運輸・交通などの経済活動を展開し、なかには讃岐国まででかけて濫妨して国司に訴えられる者まで出現するようになった。
鴨社の御厨支配は、本来、住人の身柄に限定されたものであったが、まもなく鴨社はそうした人間支配だけでは満足せず、1092年(寛治6)に四至牓示をうって住人から地子を徴収するなど、土地支配をもめざすようになり、御厨支配から荘園制的な領域支配への転換をはかりはじめた。東大寺はこれを寺領にたいする侵害とみなし、長洲浜はあくまで東大寺領であると抗議して朝廷に訴えた。ここに人間支配を梃子として土地の領域支配におよぼうとする鴨社と、土地支配権を人間支配にまで強化して荘園支配の拡充をはかる東大寺とのあいだに、東大寺・鴨社相論が勃発するにいたった。長洲荘という荘名が史料上に初見するのも、この1092年である。それは、こうした荘園制支配の推進と密接に関係しており、この時期の前後に、東大寺領長洲荘が猪名荘から分立したものとみられる。この相論にたいし、1106年(嘉承元)には、土地は元のごとく東大寺が領有し、在家は鴨社が支配すべしとする宣旨が下されたが、もとより相論はこれによって結着しなかった。
東大寺と鴨社は、訴訟だけで荘園支配を実現しようとしたのではなく、それぞれが荘園現地の開発を積極的に推進することによって支配の拡充をはかった。平安末期から鎌倉時代にかけて、鴨社の社司鴨祐季が供祭人らの労働力を組織して長洲・大物間を開発したのをはじめ、東大寺僧による開発や、有力住民の猪名為末が大物浜・尼崎浜を開墾して東大寺に寄進した例などがみられ、この地域における開発の進展を物語っている。その結果、大物御厨・尼崎御厨なども分立する。しかし一方、こうした開発と新開地の支配などをめぐって両者の争いや住人の抵抗も激化し、東大寺・鴨社相論は鎌倉末期までつづくのであった。南北朝以降、武士勢力や守護の侵略がはげしくなり、やがて応仁の乱が勃発すると、東大寺は大内氏に長洲荘の保全を訴えたりしているが、まもなく不知行になったものとみられる。
参考文献
- 竹内理三『律令制と貴族政権』第2部 1958 御茶の水書房
- 田中勇「鎌倉時代における東大寺長洲庄の開発」『地域史研究』第1巻第1号 1971