尼崎土地

あまがさきとち
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  第1次大戦期を中心にして、機械・金属・化学等のいわゆる重化学工業化が進行するにつれて、阪神間の尼崎は有望な工業地・住宅地として注目され、大戦期以降地域において土地会社が簇生した。尼崎土地は、1919年(大正8)7月資本金500万円の株式会社形態をとって設立された。そうした土地会社の一つである。1922年11月30日現在の株主数139人、株式総数10万株、そのうち神戸市には53人、7万8,010株が分布し、尼崎市には55人、1万2,850株が分布していた。神戸・尼崎両市で株主総数の77.7%、株式総数の90.9%をしめており、とりわけ神戸には株式総数の78.0%が集中していた。取締役社長南郷三郎の持株は4万2,000を数えており、神戸の分布株数の過半をしめていたのである。旧金沢藩士の出身であった貴族院議員南郷茂光の次男である南郷三郎は、1900年(明治33)東京高等商業学校を卒業したのち実業界入り、1934年(昭和9)には尼崎土地・神戸桟橋のほか日本綿花・朝鮮綿花・日華紡績の各社長をつとめており、また日華製油・全南道是製糸各代表取締役、朝日精米所・山陽中央証券・大正製麻・辻紡績・廣野ゴルフ倶楽部・大湊興業・山陽中央水電・共栄土地・杉村倉庫・満州バルプ工業各取締役等でもあった。尼崎土地は、阪神電鉄出屋敷駅から南下したところにある大洲村西高洲東浜両新田に14万坪余の経営地を有しており、それに道路、船溜用入堀等を整備して、工場敷地として分譲しようとするものであった。

執筆者: 天野雅敏

参考文献

  • 『尼崎市と尼土地』 1922 尼崎土地
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