今福

いまふく
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  小田地区の大字。市域南東部、神崎川左門殿川の分岐点西岸に位置している。史料上の初見は1260年(正元2)「摂津国中原師藤解」(妙槐記文応元年・1260,4月13日条/『尼崎市史』第4巻)。平安末から鎌倉時代にかけてはこの付近が神崎川河口で河尻と呼ばれ、西国と畿内を結ぶ水運の要衡であった。平氏政権の有力者藤原邦綱の別荘寺江山荘もこの地にあったと伝えられ、その跡ではないかという遺跡もある。

  近世には1615年(元和元)建部政長の領地となり、1617年戸田氏鉄入部以降は尼崎藩領であった。村高は「慶長十年摂津国絵図」には記載がなく、「元禄郷帳」に205.72石、「天保郷帳」に209.205石とある。また、天和貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数36軒、人数194人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には23軒、117人とある。大井組に属した。氏神は八幡神社(近世には八幡宮)。

  1889年(明治22)以降は小田村1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。今福から常光寺にかけては、大正期にはすでに大阪合同紡績(のち東洋紡績神崎工場)が広大な敷地を占め、神戸醋酸(現塩野義製薬、今福)・富士製紙神崎工場(現新王子製紙神崎工場、常光寺)なども立地する工場地帯であった。1985年の住居表示により今福となったほか、一部が常光寺・杭瀬寺島・杭瀬北新町となった。

執筆者: 地域研究史料館

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