小田村

おだむら
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1889年(明治22)4月町村制施行によって、当時の下坂部組戸長役場管轄区域(久々知下坂部潮江次屋西川善法寺額田高田神崎の10か村)、東難波組の東半部(西長洲金楽寺の2か村)、および大物村を除く長洲組(東長洲中長洲常光寺杭瀬今福梶ヶ島の6か村-1883年東長洲・中長洲両村は合併して長洲村となる)の17か村が合併して小田村となる。人口5,186人(1889年末)、村役場は下坂部村の旧戸長役場におかれた。村の北部長洲地区には東海道線神崎駅が、また南部には阪神電鉄杭瀬駅が設置されて経済的発展の利便があり、比較的はやい時期から工場化がすすんだ。1894年には常光寺に真島製紙所(現在の王子イメージングメディア神崎工場)、1913年(大正2)には同じく常光寺に大阪合同紡績1917年には杭瀬に尼崎紡績の新工場、さらに1918年には潮江にキリンビール神崎工場など大工場が続々と建設された。他方同村北部の農村地域では不在大地主が多く地主制が発達し、小作争議も多く発生した。久々知・潮江・長洲には地主会の結成が確認される。尼崎市市制施行の前後からもち上がっていた尼崎市と小田村との合併は、小田村の南北地区の利害の対立から実現が延引していたが、1936年(昭和11)4月1日ついに解消合併が実現した。この合併当時の小田村の人口は約6万で、尼崎市とほぼ同等の規模に達していた。

執筆者: 山崎隆三

参考文献

  • 『小田のしるべ』 1923 小田村
  • 『小田のしるべ』増補改訂版 1924 小田村
  • 『小田村勢』 1932
  • 『小田村勢』改訂版 1936
  • 『写真が語る小田の今昔 郷土』 1990 小田の歴史博物展実行委員会

関連項目

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