全農全国会議兵庫県連合会

ぜんのうぜんこくかいぎひょうごけんれんごうかい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1931年(昭和6)3月の全国農民組合(全農)第4回全国大会の抗争を機とする8月の全農全国会議(全農全会)の結成とともに、全農兵庫県連合会はその傘下に入った。淡路島を主要勢力とするが、摂陽出張所が大畑義久によって川辺郡神津村森本(現伊丹市)にもおかれ、1931年11月に武庫村の奥田末治らが生津〔なまづ〕支部を結成すると、大畑もここに移り住んだ。羽原正一が1933年8月に、全農全会兵庫県連になって初めて本格的に摂陽出張所を小田村潮江字潮江の教専寺においた。羽原は同年秋に県連書記となり、翌1934年春にかけて潮江・久々知・戸ノ内各支部を設立した。生津支部では、1934年5月の地主による小作調停申立てを小作料15%減免で解決して、離作料が地価の3分の1(反当り300円)に高騰、道意〔どい〕支部でも区画整理事業中止を求めて2年余の争議を展開、1937年春、反当り230円の離作料を獲得した。1935年10月6日に武庫郡鳴尾村(現西宮市)で開催の摂陽地区第1回大会では、2年前の100人余から数百人に組織拡充され、県連本部も1936年2月には三原郡賀集村(現南あわじ市、旧南淡町)から西宮市に移った。1937年末に、現尼崎市域では6支部118人を組織するにとどまったが、前年2月の衆院選には県連委員長の長尾有は兵庫県第2区から立候補し落選したものの、現市域で1,327票を獲得、うち636票が小田・大庄両村の得票であった。1935年9月3日の全農総本部派への復帰も、名称の変更にとどまり、1938年2月に兵庫県農民連盟へ改組された。

執筆者: 岩村登志夫

参考文献

  • 羽原正一「1930年代の尼崎の農民運動」『地域史研究』第3巻第1号 1973
  • 奥田末治「阪神地方の全協・全農活動に参加して」『地域史研究』第7巻第2号 1977
  • 『戦前尼崎の労農運動』 1979 尼崎労農旧友会

関連項目

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