友行

ともゆき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  武庫地区の大字。市域北西部に位置する。弥生古墳時代道ノ下遺跡南戸板遺跡があり、また時友にかけて平安~鎌倉時代の時友遺跡がある。史料上の初見は1277年(建治3)「醍醐寺報恩院領年貢注進状」(醍醐寺文書/『尼崎市史』第4巻)で野間村友行名〔みょう〕とある。野間荘の名田開発領主名に由来する地名であろう。隣村の時友も同荘の名田であり、中世から近世にかけて野間荘が野間・時友・友行の3村に分離していったものと考えられる。

  近世には1617年(元和3)旗本長谷川氏(守知系)知行所、1632年(寛永9)大部が同氏守勝系に分知され、残る小部は1646年(正保3)幕府領1694年(元禄7)武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)の領地、1823年(文政6)幕府領、1828年尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に295.2石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に300.862石とある。富松井組に属した。氏神は須佐男神社(近世には牛頭天王社)で時友と立会、寺院は高野山真言宗白衣観音寺(旧称観音寺)、ほかに近世には真言宗瑞光山常法寺があった。

  1889年(明治22)以降は武庫村1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1978年の住居表示により武庫之荘となったほか、一部が武庫之荘本町・西昆陽〔こや〕となり、友行という地名は消滅した。

執筆者: 地域研究史料館

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