地頭

じとう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  平安末には、現地の有力者が任じられる荘官の一種であった、1185年(文治元)源頼朝が治安維持を名目に、荘園・公領を問わず地頭職を設置して御家人を任命する勅許を得たことにより、鎌倉幕府の公的な制度となった。その職権は、下地の管理、年貢・公事などの徴収と納入、警察権の行使などであった。承久の乱後、幕府は京方から没収した3,000余か所に、従来より強い権限をもつ地頭を補任した。これを新補地頭といい、頼朝以来の地頭を本補地頭と称する。こうした地頭の設置と拡大は、荘園領主にとって大きな打撃となり、各地で地頭の荘園侵略をめぐる紛争や相論が頻発するにいたった。市域では、杭瀬荘や大島雀部〔ささべ〕荘などに地頭がおり、杭瀬荘では、文永年間(1264~1275)に荘園領主と相論をおこしている。

執筆者: 田中文英

参考文献

  • 安田元久『地頭及び地頭領主制の研究』 1961 山川出版社

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