大物遺跡

だいもついせき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  尼崎市の南東部、大物町2丁目に所在する中世遺跡。標高約-1mの低地で、西を流れる旧武庫川(現在の庄下川)の運ぶ土砂によって形成された沖積地に立地しており、平安時代後期以降、しばしば文献に登場する「大物浦」にあたると考えられている。

   1994年(平成6)、大物町2丁目の木造市営住宅建て替えにともない、試掘調査を行なった結果、遺物・遺構を検出した。そのため当該地を「大物遺跡」として周知し、市営住宅の建物部分の全面発掘調査を実施することになった。平成7年度に尼崎市教育委員会によって実施された第1次調査では、建物跡等の遺構は検出されなかったが、現地表下約1.7mから3.4mの間に7層の包含層を検出している。平安時代末から鎌倉時代の日本各地で作られた様々な土器、当時盛んだった海外との交易でもたらされた貿易陶磁器が大量に出土しており、貿易陶磁器の中には、底部に文字などを書いた墨書陶磁器も含まれていた。貿易陶磁器は中国製の白磁(福建〔ふっけん〕省・広東〔かんとん〕省内の窯)・青磁(浙江〔せっこう〕省龍泉窯〔りゅうせんよう〕と福建省同安窯〔どうあんよう〕)があり、日常の食器も多数含まれており、ごく僅かではあるが、白磁の壺、江西〔こうせい〕省景徳鎮窯〔けいとくちんよう〕で作られた青白磁の合子〔ごうす〕、福建省磁竈窯〔じそうよう〕の黄釉〔おうゆう〕陶器盤、江西省建窯〔けんよう〕の天目茶碗、陝西〔せんせい〕省耀州窯〔ようしゅうよう〕の黒釉〔こくゆう〕陶器水注等といった商品として運ばれてきた嗜好品も確認されている。これらの貿易陶磁器は明州(現在の寧波〔にんぽう〕市)から海路東シナ海を経て博多に荷揚げされ、瀬戸内海を通過して京都に運ばれる途中、大物に荷揚げされたものと推測されている。また、これら大量の土器とともに、当時の人々の生活の一端を示す木簡・曲物・漆器・装身具等をはじめとする木製品、金属製品(永楽通宝等の銭貨ほか)・石製品(硯・温石ほか)等の様々な資料が出土しているほか、偏平な石に経文を墨書した約1千点におよぶ経石(多字一石経)等、興味深い遺物も発見された。

   出土した遺物から大物が最も賑わった時代は、平氏政権誕生から鎌倉期の執権政治確立期に至る約100年間であったと推測されている。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 尼崎市教育委員会『尼崎市埋蔵文化財調査年報平成7年度(2~6)-大物遺跡第1次調査概要 その1~5』 2001~2005
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