庄下川

しょうげがわ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
大正時代の庄下川
大正時代の庄下川

  大物川が古くから東西方向に流れていたのに対し、庄下川は常に南北方向をとってきた。これは尼崎デルタを形成してきた武庫川の一分流であることを物語る。弥生時代の遺跡が、当時の河口と思われる庄下川中流地域にあり、古墳時代への移行も考えられる。また奈良時代の条里遺構も部分的に残っており、古代における武庫郡河辺郡の郡界も、部分的には庄下川の流路に沿っている。中世には生島荘が上流に位置しており、庄下川の名称も同荘の下流であったことに由来するという説がある。近世尼崎城と城下町は河口両岸に位置しており、城の外堀の役割も果たした。近代には、大正期の大阪板紙の悪水問題などを端緒に水質が極度に悪化した。このため、1988年(昭和63)には建設省による「ふるさとの川モデル河川」の指定を受け、整備工事を進めるなか水質の改善を見た。

  現在は富松川・東富松川・西富松排水路の合流する南塚口町8丁目から左門殿川に合流する松島ポンプ場まで5,954mを庄下川と呼び、2級河川であったが、1972年4月に1級河川となった。

執筆者: 渡辺久雄

  1995年4月には1級河川の指定を変更、東富松川を含んで伊丹市との市境まで上流端を移動し、7,296mとなった。

  2000年、建設省(現国土交通省)等による「近代水道制度100年記念行事」の一環として庄下川が「甦る水100選」の一つに選ばれた。

執筆者: apedia編集部

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