阪神乗合自動車

はんしんのりあいじどうしゃ
旧国道バスより転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  阪神電鉄の路線バスの運行は1929年(昭和4)7月に西宮市内香枦園における海水浴客輸送で始まった。その後、西宮市内の循環バス(1929年9月)、甲子園-浜甲子園間の甲南バス(1929年12月)、武庫川大橋東詰-武庫川尻間の武庫川バス(1931年2月)の運行を始め、1931年3月には摂津電気軌道の乗合部門を買収して西宮-宝塚間の西宝バスとした。1931年12月12日には旧国道バス(阪神出屋敷駅前-大石間18.4km)を開通、1933年1月に芦屋乗合自動車を買収するなど盛んに路線を延ばした。1933年3月25日に淀川自動車(株)を合併するに至って路線バス事業を阪神電鉄から分離し、阪神乗合自動車(株)として発足した。同社は現尼崎市域では旧国道に沿った路線のほか、旧国道武庫川橋東詰から川沿いに南下し阪神武庫川駅へ連絡する0.3kmの路線も引継ぎ営業し、芦屋・香櫨園・甲子園の各海水浴場、鳴尾競馬場、十日戎、広田の花見、門戸厄神、甲子園球場などで臨時運行を行った。

  尼崎市内の路線では、1934年から1935年にかけて尼崎直通線(阪神出屋敷駅-浜間6.5km)および循環線(神田中通6丁目-東御園町間2.82km・浜-長洲堤ヶ内間1.25km)の免許を取得し、香櫨園に加えて出屋敷にも操車場を設けている。また、1934年9月には東本町1丁目より西大手橋に至る路線の出願に対し、混雑した本町通商店街を通る危険性から沿道関係者や商店連盟から市役所へ反対の陳情書が提出されている。これらのバスの運行期間は短く、日中戦争下の統制経済により不要不急路線として1939年に旧国道バスの運行を休止したのを皮切りに他の路線も休止が続いた。また、ガソリン統制によってタクシー会社の統合が進み、尼崎、西宮、芦屋のタクシー会社を買収するも、燃料統制下にあって大半は稼働できずにいた。1944年には甲子園球場に設置された輸送隊よりトラックによる軍需輸送を請け負っている。1945年8月6日の空襲では西宮の本社をはじめ事業施設、車両の大半を焼失する壊滅的な被害を受け、復旧は進まなかった。終戦後はタクシーとトラック事業を中心に事業を再建し、路線バスは1950年6月時点で兵庫県内73.29km、大阪府内10.2kmの免許路線のうち野田阪神-淀川大橋経由-木川町間4.5kmを2両のバスで細々と運行するのみとなっていた。

  1952年には武庫川線、尼崎直通線、尼崎循環線の免許を返上、1954年には京都市より廃棄物運搬を請け負っていた京都支店が阪神トラック(株)となり、1954年5月29日に阪神乗合自動車は阪神タクシー(株)と改称した。

執筆者: 井上衛

参考文献

  • 『昭和十一年の回顧』 1936 阪神電気鉄道運輸課共済会
  • 『輸送奉仕の五十年』 1955 阪神電気鉄道
  • 『阪神電気鉄道八十年史』 1985
  • 『阪神電気鉄道百年史』 2005
  • 鉄道省編『全国乗合自動車総覧』昭和9年版 1934 鉄道公論社出版部
  • 『尼崎市史』第8巻 1978
  • 『兵庫県百年史』 1967

関連項目

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