武庫荘

むこのしょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  鎌倉時代から戦国時代にあった荘園。鎌倉時代に東一条院立子(関白九条良経の女〔むすめ〕)が興福寺春日大社に寄進し、女院御八講料所として成立し田地は26町2反であった。もと九条家領であったので、同家ゆかりの興福寺大乗院門跡が管理することになった。しかし、当時地元には信基という人物が根本領主と名乗り興福寺支配に反発していた。信基は九条家の下で預所職か下司職を得ていたものと思われる。室町時代の史料によればこの武庫荘は、武庫郡内に散在した恒松名(のち恒松村、近世の常松村付近であろう)、稲垣名(のち稲垣村)を集めて立荘したと伝えられている。室町時代の荘田26町2反のうちに給地を与えられた興福寺松林院家の預所名があり、預所名からの上分米は春日社家辰市御師祈祷科(一種の神主給)に渡されていた。室町時代以降松林院家の直接支配が困難になると年貢請負制となり、毎年25貫文の契約がなされた。また、同荘には預所名と並び菖原名〔しょうはらみょう〕があり、応仁の乱以前は地侍の太田対馬守が預所名の代官であったが、乱後は菖原名の代官吹田氏がその預所名の代官職をも奪ってしまった。吹田氏の預所名・菖原名両名年貢の怠納により、興福寺は1478年(文明10)からの一時期伊丹親時を菖原名の代官に任命した。1482年吹田氏が没落すると、幕府は興福寺に命じて吹田氏と対立していた太田氏を菖原名の代官に任命させ、預所名も太田氏に帰した。しかし、太田氏も吹田氏と同様に年貢を納めなくなったため排除され、次第に荘園経営は地侍・百姓らに委ねられていった。

執筆者: 田中勇

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