生島荘

いくしまのしょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  現在の尼崎市富松から東難波〔なにわ〕付近に位置した荘園。中世では、富松郷浜郷を中核とした。もと多田源氏の一族源実国が開発した所領で、代々相伝し、康治年中(1142~1144)、三河権守雅行のとき、年貢100石を納入することを条件に皇嘉門院聖子に寄進し、生島荘が成立した。雅行は預所職を安堵されたとみられる。その後、当荘は皇嘉門院より九条兼実に伝わり、鎌倉初期、兼実がその領家職の一部を春日神社に四季八講料として寄進したため、春日大社興福寺の支配が及ぶこととなった。本家は九条家であったものの、次第に実質的な荘園支配を春日社・興福寺が行なうにいたり、鎌倉末期には、開発領主源実国の子孫の覚照の預所職を没収しようとして対立事件をおこしている。南北朝期以降も春日社・興福寺は、武士勢力の侵略などに抵抗してよく荘園支配の維持につとめ、室町時代後期でも、富松郷で14町余、浜郷で17町余の田地を確保している。応仁・文明の乱が勃発すると、浜郷は一時不知行になるが、まもなく知行を回復し、春日社・興福寺は、現地の百姓に年貢の納入を請け負わせる地下請や、伊丹与三郎親時らの在地武士を代官にする代官請などを採用しつつ懸命の努力をはらい、16世紀初頭ころまで荘園支配を存続させた。このため、九条家もそのころまで本家としての地位を維持することができた。なお、12世紀末に、これとは別に、長講堂領の荘園として生島荘が立荘されているが、詳細は不明である。

執筆者: 田中文英

参考文献

  • 田中勇「中世の生島庄村落」『地域史研究』第3巻第3号 1974

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