貴布禰屋敷

きふねやしき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  戦国時代、尼崎の貴布禰宮の社地の一部にあった屋敷。鴨御祖社〔かものみおやしゃ〕領長洲御厨には、海民の信仰が厚かった貴布禰神社が存在した。御厨の中心が長洲から尼崎に移ると、同社の分社も尼崎に作られ尼崎地下人の信仰を集めた尼崎惣社となった。1552年(天文21)2月、「証如上人日記」(『尼崎市史』第4巻)によると、尼崎日蓮衆は本興寺のためにこの惣社の地に寺内を構え、家数を立てるとあり、1556年(弘治2)三好長慶地下人が本興寺に貴布禰屋敷を門前寺内として寄進することを認め、一連の禁制を発令している。同年の番所司宗玖等5人連署の書状にも、尼崎惣中が借銭のために貴布禰宮屋敷と田畠を本興寺に譲渡したと伝えている。また、この宮屋敷は宮社地の一部で、東西22間2尺、南北12間。四至は東は土井を限り、南は法光寺岸の宮の東の道より、東西は堀を限り、西と北は土井を限るとある。

執筆者: 田中勇

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