赤松氏

あかまつし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  中世播磨国の土豪の出身。村上源氏の流れで、鎌倉時代初頭の11911193年(建久2~4)ころ則景の時、播磨国佐用荘の地頭となり、その子、家範の時から赤松を名乗っている。家範の曽孫則村(円心)は、足利政権成立に大きな役割を果たし、則村は播磨の、嫡子範資は摂津の、次子貞範は美作の、それぞれ守護職に補された。しかし赤松氏の摂津支配は西摂に限られ、兵庫と尼崎を拠点として西摂を守った。しかも同地域の寺社本所領はすでに守護使不入の特権が認められている荘園が多かったので、兵糧米や軍夫の賦課なども容易でなかった。赤松氏は播磨から従えてきた家臣を西摂の支配に投入した。守護代としては神崎役所にいた河江右衛門太郎入道円道が知られる。しかし、河江は1351年(観応2)の観応の擾乱に際し、足利直義の命をうけた御家人伊丹左衛門宗義によって追放されてしまった。範資の跡を継いで摂津守護となった光範も在地勢力の掌握が進まず、被官間島範清を守護代に送り込んで西摂支配を強めようとした。1374年(応安7)守護光範は罷免され、失意のまま1381年(永徳元・弘和元)に没した。赤松氏は播磨国の場合とは異なり、摂津国守護職は掌握したものの、その勢力を現地に植え付けるまでに至らなかったといわれる。しかし戦国時代に川辺郡南部の土豪として活躍した一族には、赤松氏配下の武将と思われる人物がおり(「難波七姓」と称される広岡・小寺・高岡・加島など)、赤松氏の勢力扶植面については、なお検討の余地を残している。光範の死後も有馬郡は播磨国守護に付属して、同氏一族によって引き続き維持されていた。

執筆者: 田中勇

参考文献

  • 高坂好『赤松円心・満祐』 1970 吉川弘文館

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