赤松範資

あかまつのりすけ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  ? - 1351年(観応2・正平6)4月8日

  南北朝時代の武将。信濃守、左衛門尉。摂津国守護。父は播磨の土豪、則村(円心)。建武政権に離反した足利尊氏に属し、その軍功によって室町幕府成立後まもなくして赤松一族の中心的役割を担い、父の死後赤松氏の惣領となった。観応の擾乱で、足利尊氏と弟の直義が和解して間もない1351年4月8日、京都堀川七条の自邸で急死、範資を始祖とする赤松氏家系を屋敷のあった七条にちなんで七条家という。範資は、1326年(嘉暦元)9月、長洲の地下〔じげ〕の中心的な住人で組織されていた代官・沙汰人・番頭らによる起請文(大覚寺文書)に弟の惣追捕使貞範とともに執行〔しぎょう〕範資として署名しており、尼崎との密接な関係を示している。このとき範資・貞範は、海上交通の拠点としての尼崎を守護するために雇われた海賊的な武士集団の頭目というべき地位にあったと考えられている。

執筆者: 田中勇

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