長尾山入会

ながおやまいりあい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  川辺郡切畑村(現宝塚市)の長尾山は、古くから田畑の肥し草(刈敷肥料)・牛馬の飼料・薪などを採取する入会山で、1594年(文禄3)の太閤検地以来山手銀を領主に納めることと定められ、山親の切畑村が山子村々から集めた山年貢より山手銀を上納、残りは山支配諸入用にあてた。山子は当初62か村で川辺・武庫・豊島〔てしま〕の3郡(現市域では宝塚・伊丹・川西・尼崎・池田の各市)にわたり、尼崎市域では川辺郡の猪名寺清水瓦宮塚口東富松と武庫郡の西昆陽時友友行の8か村が含まれていた。1678年(延宝6)の延宝検地以降伊丹市域4か村が山子を退き、58か村(山手銀を納めない中山寺を含めると59か村)立会山と称するようになった。

  1878年(明治11)の地租改正の際の山林原野官民有区分により、長尾山は切畑を含む48か村の共有地となった。尼崎市域では猪名寺西昆陽時友友行が含まれていた。1899年に山の一部が阪鶴鉄道の敷地となった際の代価分配をめぐる対立を機に、切畑が他の47大字を相手に山の単独所有権を主張して提訴し、1904年の大審院の上告棄却により原告敗訴が確立した。これが長尾山事件である。なお翌1905年には共有名義の48大字による長尾山共有町村組合が設けられ、山林管理や共有財産処分等の事務を共同で処理した。同組合の詳しい活動の内容は不明であるが、長尾山自体はその後共有者により分割処分されていった。

執筆者: 吹田豊和

参考文献

  • 『宝塚市史』第2巻、第3巻、第5巻、第6巻 1976~79
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