西昆陽

にしこや
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  武庫地区の大字。市域北西部、武庫川の東岸、昆陽(現伊丹市)の西方に位置し、西国街道が村域を通過していた。史料上の初見は1345年(康永4)「御教書引付」(お茶の水図書館成簣堂文庫所蔵興福寺大乗院文書/兵庫県史料編中世7)で西小屋庄とある。対岸の田近も同荘の一部であったが、16世紀初めころ武庫川の洪水で田近が流出し村民が西昆陽へ移住、荒野となった田近の地は西昆陽の一部となった。

  近世初期には幕府領1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に276.82石、「元禄郷帳」に353.645石、「天保郷帳」に354.103石とある。また、天和貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数52軒、人数281人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には45軒、212人、とある。西昆陽一村で昆陽井〔ゆ〕を利用した。西昆陽の南に接する常松地内に西国街道の髭の渡しがあり、武庫川西岸への船渡しは西昆陽と常松が月番で担当した。氏神は須佐男神社(近世には牛頭天王社)、寺院は浄土真宗本願寺派円宗寺。ほかに近世には真言宗無本寺当福寺があった。

  1889年(明治22)以降は武庫村1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1969年には田近野が平左衛門新田との交換で西宮市に移った。1984年の住居表示により西昆陽となったほか、一部が武庫之荘・常松となった。

執筆者: 地域研究史料館

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