阪本宣業

さかもとせんぎょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1747年(延享4)5月12日 - 1825年(文政8)10月2日

  幼名は陶蔵、名は公修・純吾・勇・子義。号は弦山・松庵・清熈園。1767年(明和4)21歳で大小姓格として尼崎藩に仕官し、1779年(安永8)10月父阪本幸庵の跡を継いで藩主松平忠告の侍講となった。安永期の藩政改革に際し、斎静斎の助言もあり、家塾鳳尾塾を清熈園と改称し、藩士教育の一層の拡充をはかった。1784年(天明4)に刊行した著書「学啓」に宣業の学者としての基本的立場が知られる。それによれば、宣業は萩生徂徠の学統を継承しながら、広く諸子百家の書も読み、摂取すべきものとした。さらに稗史〔はいし〕小説も人の道を明らかにするに用をなし、鄙俚狸雑〔ひりわいざつ〕の書ほど人情を尽したものとして、退けるべきでないと説いた。実際、経書ばかりを学んだ人は道理を理解することが難しいから、同時に詩文章を習うことが肝要であり、またいたずらに唐風に染まることなく聖学の根本を考え、それを国情や時代に合わせて実現することが大切であるとした。要するに、学派にとらわれることなく、古来聖人の説く人のあるべき道を、人情にもとづき、時代に応じて実現すべきであると主張した。この種の主張はユニークなものではないが、時代性をよく反映したものといえよう。宣業には著書32部48冊、訓校10部25冊があるが、「清熈園詩集」は知られている。

執筆者: 竹下喜久男

参考文献

  • 岡本静心『尼崎藩学史』 1954 尼崎市教育委員会・尼崎藩学史出版協会
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