兵庫津

ひょうごつ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  現神戸市兵庫区。大阪湾の西北端、和田岬から旧湊川の河口へかけての湾曲部に位置する港町。中世には中国や朝鮮の船も入港して貿易が行なわれたが、国内の貢米運送や瀬戸内・南海の産物を積送する廻船でもにぎわった。1445年(文安2)の「兵庫北関入船納帳」では延べ1,960隻の入港、島上・匠・磯・松屋・鍛冶屋・塩屋など後の町名もみえ、問丸など商業運輸を中心にした町場が形成されていたことが知られる。戦国争乱期に細川・大内両氏の戦場となり被害を被ったが、安土桃山時代に池田恒興の領となり、兵庫城が築かれ、城下町として整備されたという。その後豊臣秀吉の直領であった天正末の船役銭・地子銭・諸座公事船の算用請取状からは、港町としての活動を十分にうかがいうる。1617年(元和3)尼崎藩領となり、1769年(明和6)まで続いた。藩では兵庫城跡に陣屋を置き、兵庫奉行を常駐させた。石高は地子方(町)本高1,012石余、地方〔じかた〕(田畑)同2,626石余、町数は一定ではないが44(岡方27、北浜11、南浜6)、戸数4,245、人口2万546(1739年当時)。海陸の要衝で、瀬戸内・日本海沿岸の産物を扱い(諸問屋・干鰯・米仲買)、西国街道の宿駅としては伝馬所・旅宿を擁し、西南諸藩の定宿で国産品を扱った浜本陣、酒・醤油・鍛冶・樽・船大工などの諸業も存した。町政は各町に組頭があり、岡方・北浜・南浜の三方にそれぞれ惣会所があって名主・惣代が統括した。

執筆者: 木南弘

参考文献

  • 『兵庫県史』第5巻 1980

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