大塩平八郎の乱

おおしおへいはちろうのらん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1837年(天保8)2月19日に大坂東町奉行の元与力で陽明学者でもあった大塩平八郎中斎が、飢饉のさなか幕府役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件。町奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300名を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城をめざしたが鎮圧側に阻止された。決起直前に江戸の老中らに送った建議書が近年明らかにされ、幕閣や大坂町奉行所にかかわる不正を摘発し、「救民」にきわめて政治的意味があったことが知られる。当時配布された檄文は大名から民衆まで広範囲に伝写され、また乱の情報は大塩らの潜伏したこともあって全国に伝えられ、幕藩制社会に大きな衝撃を与えた。大塩は、伊丹の酒造家たちにも教学を説き、馬借をも門人に加えていた。乱に先立って伊丹伊勢町に家族を潜伏させていた。乱によって大坂市中の3分の1が焼失したが、大塩を慕う民衆や同調した貼紙に幕府は肝を冷やした。尼崎藩は、高槻・岸和田・郡山などの諸藩とともに出勤を求められ、2月19日早くも大坂蔵屋敷留守居から速報で、藩主在府中ながら、大阪城大手口を固め、さらに京橋口から河内守口町へ鎮圧に赴いた。尼崎城下でも木戸をしめ、辰巳神崎の渡し場、竹谷と北之口の番所を警備して通行人を厳重に改めた。村々へは人足の割り当ても行なわれたが、23日には警戒は解除され、町方も平常に戻った。米価は乱後さらに高騰したことが判明する。

執筆者: 酒井一

参考文献

  • 国立史料館『大塩平八郎一件書留』 1987 東京大学出版会
  • 宮城公子『大塩平八郎』 1977 朝日新聞社
  • 酒井一「大塩の乱と在郷町伊丹」『地域研究いたみ』第3号 1975 伊丹市立博物館
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