大覚寺

だいかくじ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  寺町にある律宗・唐招提寺末の寺院。山号は月峯山。1275年(建治元)に尼崎に来たという琳海上人の開基と伝えられるが、その初源はさらに古く長洲の燈炉堂にさかのぼる。同寺所蔵「大覚寺縁起」(兵庫県史史料編中世4)などの縁起類によれば、長洲浦人に霊地剣尾山(現能勢町)を教えられた日羅が同地に月峰寺を建立し、さらに長洲には浦人たちの手で燈炉堂がつくられた。日羅は百済出身の僧で、『摂陽群談』は600年(推古8)に日羅が聖徳太子の命により月峰寺を創建したとしている。

  中世大覚寺の位置は、近世尼崎城の東三の丸から市庭町にかけて(旧字名・大覚寺町、現南城内~東本町4丁目)のあたりで、敷地は鴨社領長洲御厨から寄進され、御厨の万雑公事(雑税)は免除された。さらに、1314年(正和3)ころの長洲住民による寺地侵害事件や1326年(嘉暦元)ころの燈炉堂破却事件ののち、長洲地下〔じげ〕人が寺の保全責任を負うよう定められた。寺の東側の門前市が市庭町へと発展し、また別所町の町名も大覚寺の別所(寺院に付属する周辺地)であったことに由来することからもわかるように、中世尼崎町のなかで大覚寺は重要な位置を占めた。戦国期には城としても利用され、大覚寺城と呼ばれている。

  近世尼崎城築城にともない、元和年間(1615~1624)に寺町へ移転したと考えられる。同寺所蔵の木彫・伝日羅像はいちじるしく破損しているが、平安前期ころまでさかのぼる市域最古の仏像と考えられる。また、同寺所蔵の大覚寺文書は県指定文化財となっている。

執筆者: 地域研究史料館

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