水堂

みずどう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  「みっど」とも発音する。立花地区の大字。市域西部に位置する。水堂古墳大井戸古墳と、南北朝時代の水堂宝篋印塔がある。史料上の初見は1467年(応仁元)の合戦について記した1499年(明応8)「大内義興感状」(萩藩閥閲録2)。なお小路〔しょうじ〕村という中世以来の枝村があり、史料上の初見は光輪寺「方便法御影裏書」(立花志稿)中の1531年(享禄4)の記録で橘御薗〔たちばなのみその〕庄水堂小路村とある。

  近世には、村の大部は1615年(元和元)池田重利の領地となり、1617年(元和3)尼崎藩領1643年(寛永20)尼崎藩より分知された旗本青山氏(幸通系)の知行所、小部ははじめ幕府領または大坂城代領1694年(元禄7)武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)の領地となり、1823年(文政6)幕府領、1828年尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に1,096.39石、「天保郷帳」に1,134.838石とある。「元禄郷帳」には1,034.838石とあるが1,134.838石の誤記と考えられる。水堂井組に属した。氏神は須佐男神社(近世には大梵天王宮、近代にははじめ素盞嗚〔すさのお〕神社)、寺院は浄土宗常春寺・浄土真宗本願寺派金衆寺・同宗同派光輪寺。戦国時代の光輪寺は、塚口御坊三反田から大物に移転した西教寺とならんで一向一揆の拠点であったと考えられる。

  1889年(明治22)以降は立花村1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1934年には七松・水堂地内に東海道線立花駅が開設され、19331935年には七松・水堂・三反田にまたがる橘土地区画整理により駅周辺市街地が造成された。19721982年の住居表示により水堂町および、西立花町と南武庫之の一部となったほか、一部が七松町・立花町・南七松町・大庄北となった。

執筆者: 地域研究史料館

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