神戸大学工学部誘致問題

こうべだいがくこうがくぶゆうちもんだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1953年(昭和28)、当時の阪本勝市長金井慶二尼崎商工会議所会頭の働きかけを受け、文部省次官通達によって移転整備のために候補地を探していた神戸大学工学部(当時神戸市長田区西代・松野両学舎に分離)に対して「武庫川河畔4万坪の無償提供」を申し出、翌1954年5月大学評議会では尼崎移転を確認。一方、原口忠次郎神戸市長は同年5月から大学側に「尼崎への移転決定」保留を申し出。神戸商工会議所・神戸大学とともに六甲ハイツ接収解除を駐留軍に申請。7月の大学評議会では「尼崎市の土地受入れの決定と、工学部移転問題は別問題」とした方針をうち出し、1956年になると大学側は「尼崎市への移転計画中止、六甲台移転」の方針決定。工業・文化都市を目指した尼崎市の神戸大学工学部誘致は実現を見るに至らなかった。

執筆者: 末方鐵郎

参考文献

  • 『尼崎商工会議所八〇年史』 1992
  • 河島真「一九五〇年代の地方都市と大学-神戸大学工学部の尼崎移転問題-」『神戸大学史紀要』第7号 2007
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