阪本勝

さかもとまさる
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
阪本勝市長
阪本勝市長

  1899年(明治32)10月15日 - 1975年(昭和50)3月22日

  旧尼崎町の大物町の尼崎藩医の家系で眼科医の阪本家の長男に生まれた。大阪府立北野中学校・第2高等学校文科を経て、1923年(大正12)東京帝国大学経済学部卒業。福島県立福島中学校教諭をへて、1925年4月大阪毎日新聞社学芸部記者となった。しかし、人道主義的正義感の強い性格から平凡な記者生活に倦怠を感じ、被差別部落の実態を研究し、また大原社会問題研究所へ出入りし、やがて記者の肩書で「水平社問題について」と題して演説したことから、1年で同社を退社せざるえなくなった。1927年4月関西学院大学文学部・社会学部講師となり、政治学・ドイツ語を講じたが、河上丈太郎・賀川豊彦両氏のすすめで8月同学院を退職、第1回普選(地方選)に賀川の経営する神戸市新川スラム街のセツルメントを基地として日本労農党から出馬し最高点で当選、兵庫県議を1937年3月までつとめた。のち一時病院経営にあたったが、1940年11月発足の大日本産業報国会文化部長に湯沢三千男の薦めで就任、1942年4月から1946年3月まで大政翼賛会推薦の衆議院議員をつとめた。このため戦後の第1次公職追放(D項該当)となったが、1950年10月解除。翌1951年4月から1954年11月まで尼崎市長(社会党公認)、さらに翌月から1962年10月まで兵庫県知事(同党推せん)を2期つとめた。市長時代には防潮堤の完成、県知事時代には無点灯部落解消運動など但馬地方の開発に情熱を注ぎ、また「県民とツバメは自由に知事室に来れ」と宣言して住民との対話を標榜し、県政に新風を吹き込んだ。1963年4月社会・民社・共産の推薦で東京都知事選に立候補したが敗れた。1970年6月、兵庫県立近代美術館長に就任。1975年芦屋市の自宅で逝去、享年75歳。墓は尼崎市寺町如来院の先祖の墓域中にある。単なる政治家・文化人ではなく、常に思索しかつ行動する情熱の人であった。思想・文学・芸術に広く通じ、著書に『洛陽飢ゆ』(1927年福永書店)『戯曲資本論』(1931年日本評論社)『歌集風塵』(1945年市民同友会)『市長の手帖』(1954年新元社)『知事の手帖』(1958年のじぎく文庫)『荒磯に鰯を焼く』(1963年彩光社)『わが心の自叙伝』(1967年のじぎく文庫)『流氷の記-わが生の思索と実践-』(1969年朝日新聞社)『佐伯祐三』(1970年日動)、翻訳にハウゼンスタイン原著『芸術と唯物史観』(1928年同人社書店)林語堂原著『生活の発見』(正・続、19521953年創元社)など多くの業績がある。1979年から1993年にかけて『阪本勝著作集』(全5巻、阪本勝刊行委員会)が刊行された。

執筆者: 梅溪昇

参考文献

  • 『人間阪本勝』 1975 神戸日豪協会
  • 『生きた愛した阪本勝』 1975 阪本勝君頌徳碑建立委員会
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