大日本セルロイド神崎工場

だいにほんセルロイドかんざきこうじょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  セルロイドの原料である樟脳は、明治30年代中ごろまで日本の植民地・台湾が世界需要の90%を供給していたので、明治末から大正初期にかけて日本セルロイド人造絹糸、堺セルロイドなどセルロイドの国産化を企てる会社が次々に設立された。1916年(大正5)8月、岩井本店・岩井勝次郎によって、小田村神崎に創設された大阪繊維工業(株)もその一つである。尼崎町にはすでに明治40年代に能登屋セルロイド製造所も設立されていた(『ダイセル化学工業60年史』には1909年(明治42)、『尼崎市現勢史』には1912年4月とある)。折からの第1次大戦に際会して、諸外国の製造会社が軍需品生産に転換したこともあってこれらの会社は繁忙をきわめたが、大戦の終結とともに一転供給過剰となり、反動恐慌のなかで業界は疲弊の様相を深めた。そのため、上記の4社を含む8社が合併して1919年9月、資本金1,250万円の大日本セルロイド(株)が新発足、大阪繊維工業はその神崎工場となった。

  1942年(昭和17)から陸軍の管理工場に指定されたが、1945年6月1日の空襲で設備の3割は被災、同15日再度の空襲では工場のほとんどが全壊した。1947年ころから操業が再開され、セロハン・ラクトロイドなどの生産拠点となった。1966年からは会社名がダイセル(株)に、1979年10月からはダイセル化学工業(株)と改称された。

執筆者: 名和靖恭

  2011年10月、会社名を(株)ダイセルと改称した。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 『ダイセル化学工業60年史』 1981
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